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March 27, 2007

団塊のJAZZエッセイ「KIND OF BLUE」その118回ーー「マイルスがやってくる」の巻ー

ある日のアフターアワーズで、常連の船橋君がゼンさんに聞いてきた。
「ゼンさんが初めてマイスルを生で聴いたのは何時なの?」
「1964年さ」
「どんな年だったのですか?」
「そうだね・・・・日本中が騒がしかったなあ」
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1964年7月、「ジャズギャラリー8」が銀座に開店した。東京は10月に開催されるオリンピックでアチラコチラが工事中で騒がしかった。
高校3年生は受験勉強で大変な時期だ。
そんな中、いつものバンド仲間で「ジャズギャラリー8」へ出かけた。どうも夜はチャージが高いらしい、しかし昼はジャズ喫茶より少し高いくらいで生の音が聴ける。たしか、コーヒーが300円くらいだったかと・・・当時普通の喫茶店では80円くらいだったと思う。

出演者の名前は皆、若いメンバーで勿論レコードなどで音を聴いたことはない。
テナー:武田和命、トランペット:日野照正、ピアノ:渋谷毅、大野雄二、ベース:稲葉国光、金井英人、ドラム:富樫雅彦、等・・・。
僕達は学校帰りに学生服のまま、出入りしていた。

そんな時代背景の中で、我々の話題は、すぐそこに迫った「東京世界ジャズ祭」の話だった。
何しろマイスルがやってくる、それもいつもレコードで聴いている編成ではない、全く新しいメンバーで来るという。
唯一そのメンバーで聴けるレコードが「セヴェン・ステップス・トウ・ヘヴェン」で、これを何度も聴いた。
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評論家の先生は、わずか18歳のトニー・ウイリアムスが凄いという、最初、混同していけないと、わざわざ、「プラターズ」のトニー・ウイリアムスとは別の若者ですよ・・と注意書きがあった。
(注:コーラスグループ「プラターズ」の「オンリー・ユー」で高音を出すヴォーカルがトニー・ウイリアムスで同姓同名、こちらの方が有名だった)
ドラムソロは少し聴ことができたが未だ評価を下すには充分な情報が無かった。
「なんとメロディアスな・・・なんと斬新な・・・」と評論家先生は言うが分からなかった。
僕たちと年が変わらないトニーというドラマーが既にマイルスのグループに入ってやっている・・この事実がとても衝撃的だった。
因みにこの時マイルスは38歳である。

マイルスの他にも沢山のスターミュージシャンがやってくる、全部聴くにはお金が無い、選択で大いに迷った。JJやケリートリオも来るし・・・。
勿論、マイルスは必修だった。

暑い日だった、学校の帰りにスイング・ジャーナル社へ切符を買いにいった。
それというのも、SJ社が学校の近くにあったからだ。
今の東京タワーの麓に来るまえで、西新橋にあった、番地を頼りに訪ねていった。
汚い古いビルで、一階が半地下みたいになっており、歩道にはSJ誌が沢山積まれ、それをランニングシャツ姿の人が汗だくで運んでいた。(内心、Sj誌には就職するのは止めようとその時思った)
「アノー、世界ジャズ祭の切符を買いにきたのですが」とその人に尋ねた。
「中にいるアノ人に聞いて」と、恐る恐る足の踏み場もない屋内に階段を数段下りた。
もう蒸し暑さが凄かった。
我々はみな、3枚くらいの券を買った、安い券ではなかったので、マイスルは一番良い席にして、後の二つは立ち見席にした。
前から5番目の少し下手よりの席だった。Jazzpicmiles64haneda_2


その日は、マイルスの他に、松本英彦カルテットが組まれていた。
1964年7月14日、新宿厚生年金ホール。
時間が早すぎたので、斜め向いのジャズ喫茶、「ヨット」で時間をつぶした、その中には日野元彦さんがいた。みんな時間が近づくと一斉に店を出て、ホールへと向かった。
松本英彦カルテットで印象に強く残っているのは、「リンゴ追分」をモードでアレンジし、松本さんはとても良かった、そしてベースの寺川正興さんが、凄かった。小さい体でとても大きなベースの音を出し、鋭いフレーズを連発し、ソロイストに絡めていた。
僕はスコット・ラファロではないかと思ったほどだ。

いよいよ、御大、マイスル・デイビスの登場だ。
Tp:マイルス・デイビス
Ts:サム・リバース
P :ハービー・ハンコック
B :ロン・カーター
Ds:トニー・ウイリアムス

サム・リバースという初めて聞く名前のテナーもいるが、何しろ全員がはじめての生の音だ、始る前から興奮が高まっていった。
イソノ・テルオ氏の司会で始った。
マイルスはとても神経質でシャッターの音が聞こえただけで演奏を止めてしまうときいいていたので、この日は隠しカメラなどを持ち込むことは止めたし、勿論咳き一つに神経をとがらせた。

マイルスの音は大きかった、鋭かった、そして楽器が綺麗でスポットライトに反射するとブルーの耀きをしていた。
初めて聴くサム・リバースは前衛という前評判の割には聴きやすく、このグループにあっているのではと思った。しかし、楽器が汚かった・・・

そして何より目に焼き付いているシーンは、マイスルがソロを終わると舞台袖に下がらずに、トニーの前にゆき、客席に背を向けて、トニーと面と向かって、目で合図をおくり、もっと煽れというような素振りをしたり、アクセントがバッシッと決まるとニヤッとしたり、もう個人指導という感じであったことだ。
僕は当然ピアノのハンコックにも興味があったが、あの、ファンキーピアノのハンコックとはまた違うホリゾンタルフレーズをスピード感をもって弾くハンコックにビックリだった。
ロン・カーターにしてもそうで、ベースというとても力の要る楽器なのにどうして休まずあんなに弾けるのだろうかとただただ驚異であった。

この時の実況盤が発売されたのはこの歴史的な演奏があってから5年後であった。
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「MILES IN TOKYO」
:IF I WERE A BELL
:MY FUNNY VALENTINE
:SO WHAT
:WALKIN‘
:ALL OF YOU


サム・リバースとマイルスの一緒の盤はこれ一枚しかない、この後、サムは独立し、BNからリーダー作を出す。
一方、マイルスにはウエイン・ショーターが入団し、60年代後半からの新しい方向性をこのグループが築くことになる。
そういう意味でもあの時の演奏は意味深いものであり、また内容も良いライブ盤になった。
初め日本でしかこの盤が発売されなかったので、海外の友人から送ってくれと頼まれたことがある。

僕の網膜に映って残っているマイルスは、何しろ立ち姿の良いトランペッターで、仕立ての良いスーツと吹く姿、そしてその音が全てマッチし一体化され、全体が表現者として訴えてくる力みたいなものを持っているアーティストで、正にオーラとはこのことを言うのではないかと思うのである。

その後、何度かマイルスは来日している、大体聴いているが、この時のエキサイティング度は最高でこれに勝る演奏は無かった。
「まあ、そいうことだね」とゼンさんは思いで話を切った。

「ところで、何故、マイルスがガーランドやフィーリーのリズムセクションを好み、トレーンやキャノンボールとやったか・・・それが何故ケーリーやコブに変わり、モブレイやジョージ・コールマンになり、サム・リバースになり、ショーターになったか・・・、マイルスの本心や如何に!これを知りたいかな?」とゼンさんが周囲の常連さんに聞いた。
「そんなことを知っているのですか?」
「まあね、大体のジャズファンなら知っているのだけどね・・自分で勉強しなさいとか言ってもいいんだが」
「聞かせてくださいよ」船橋君が食いさがった。
これを知りたければ書いてもいいが・・・皆さんもうご存知ですよね、敢えて自慢げに書くのは考えます。

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Comments

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Posted by: bucknallrr | September 22, 2017 at 20:59

dukeさん
ローチはアビーとマイルスが関係があったと誤解し、その反動として、フランシスに手を出した。
マイルスの留守中にローチはフランシスのところへ行き、家のドアーを壊して乱入、フランシスは向かいの家のヴォーカリストの所に逃げ込んだ。

次は・・・カーネギーホールに殴りこんだ、人種差別運動は表だけで内情は女性問題。


>>ピート・ジョリーの話は、ついにこのBLOGに登場することにします。

Posted by: 4438miles | April 05, 2007 at 10:44

4438miles さん、こんばんは。

男女の仲というのは、傍から見ると馬鹿げたようでも当人にとっては死ぬ生きるの壮絶模様です。ローチとアビーは70年代に離婚後、80年代に再会すると、またよりがもどって一緒に暮らしたとか・・・リズとバートンみたいですねぇ。

>その前にピート・ジョリーで止まっています。

ジョリーの「Sweet September」(ava) は好きでして、4月でも聴きます。(笑)

Posted by: duke | April 04, 2007 at 18:54

DUKEさん
KAMIさん
毎度のご来店ありがとうございます。
キャシー・バーは一度聴きましたが、鑑賞までには至っておりません。
その前にピート・ジョリーで止まっています。

1964年はオリンピックで世の中が浮ついていました。巷では日本の体操のTV中継をしているのを脇目に、渋谷道玄坂を登り、百軒店の行きつけのジャス喫茶「ブルーノート」へ行き、パラゴンスピーカーから出てくるコルトレーンの「オレ」に浸っていました。
ドルフィーとトレーンが絡み、ワークマンとデイビスがアルコで絡み、タイナーとエルビンが大きな揺れを創り、そんな音の洪水の中で1964年を過ごしました。
特に夏には「東京世界ジャズ祭」があり、マイルスをはじめ一挙にJJもケリートリオも、一緒に来てしまったのです。
ジャズ年表をみると1961年から1964年がラッシュですね。
毎月のように、コンサートの立ち見席に行きました。
ジャズのめぼしい人はみなこの時期に初来日をしています。
一方で受験を控え、試験勉強どころではなかったですね。
毎日、昼飯を抜いて、小遣いを為、レコードだコンサートだと・・。
そして夜な夜な我が家にはジャズ好きがあつまり、毎夕食は家族だけで食べたことがありません。
何故、我が家に集まったか・・・それは食事が出るからだけではなく、また泊まれるだけではなく・・・時効だから言いますが、タバコが吸えるからです。
両親はと言うより父親がどうせ、自分だって17歳から喫煙をしていたといい、危ないから影で吸うなと。
父親は当時「いこい」を吸っていましたが、母が身体に良いとフィルターつきの「TOKYO64」という五輪マーク入りのタバコを用意してくれていたのです。
みんなこれで一服できるので、我が家がたまり場になったのです。
因みに、初めての禁煙は、身体に良くないからと20歳の成人式に始めての禁煙をしました。(笑)
それから禁煙のベテランになり、52歳で前面禁煙が達成できました。(・・・話がそれた!)

話をもどしましょう。
マイルスはトレーンやキャノンボールとのアンサンブルの音が好きだった。
でもみんな独立志向でかつトレーンは長いツアーを嫌った。
エバンスはとても音楽的にはあっていてもっとやりたかった、肌の色の問題ではなく、より自分のやりたいコンセプトを見つけてそれを試したがった。
エバンスだって肌色は気にしていなかった。
トレーンが自分の変わりにドルフィーを推薦した・・マイルスは好きだったが自分の音のコンセプトには合わないので止めた。
ショーターはJMとの契約期間があったので、それまで待つことになる。
フィーリーとガーランドは相変わらずだ、そこであまり聴いたことがないケリーを使ったら、ガーナーとガーランドとジャマールを合わせもったようなピアノなので気に入った。
フィーリーのトラでコブが来た、これでリズムセクションが整ったと・・・言っている。
モンクは嫌いではないがテナーに向いている、だからトレーンと一緒だとよく合うと思ったとも。
ギルモア、モブレイはみなトラだった。
ジミー・ヒースとやりたかったが・・・ヒースは執行猶予中で行動範囲が限定されていた。
そして、トニーと出会う、ハンコックはザビナルとどっちか迷ったらしい。
そして、背後にはケチなプレスティージレコード社と大金を積んでくるコロンビアのマイスル争奪戦があった。
マックス・ローチとは犬猿である。
これは、アビーとフランシスの女性問題が絡んでいて、マックスの嫉妬心って凄いもので、カーネギーホールに殴りこんだのも、人種差別抗議ではなく、嫉妬問題が主だそうだ。

まだまだ続きますね・・こんな話。

Posted by: 4438miles | April 02, 2007 at 11:58

4438miles さん、眠れぬ森の、いや棚の美女キャシー・バー聴いておりますか。美女ジャケを観賞していないで鑑賞してくださいね。

いよいよ御大マイルスが登場しましたか。それも64年の初来日。私はマイルスどころかジャズも知らない小学6年生だったことになります。当然5年後に発売されたレコードしか知らなかっただけに、マイルスとトニーのアイコンタクトは、その場にいた人しか知りえぬ貴重なものです。大変参考になりました。

ショーターをメッセンジャーズからの引き抜きに失敗したマイルスは一時エリック・ドルフィーも考えたそうです。どんなサウンドになったものやら・・・ドルフィーとハンコックの共演盤がありますが、それほど違和感がありませんでしたので、案外面白いバンドになっていたのかも知れません。

記録によりますと64年は、エラフィッツを皮切りにハリー・ジェームス、ジュリー・ロンドン、エリントン、ケリー、JJ、カーメン・マクレイ、そして暮れにサッチモ、凄い年でした。やはり先に生まれた方の勝ちです。価値あるジャズ1964年だったのでしょうね。

Posted by: duke | March 31, 2007 at 08:39

4438miles様、こんばんは。
>マイルスは後年ショーターをえらくかっていましたが、私はショーター加入直後までが好きで、以降はあまり聴きません。
私も同じです。55年から60年代初めのマイルスが好きです。
プラグド・ニッケルのライブ終了時に、マイルスがバンドの解散を宣言すれば良かったのにと思うことがあります。

Posted by: KAMI | March 30, 2007 at 19:46

BASSCLEFさん
KAMIさん

コメントありがとうございます。
生まれた時期が良かったか、悪かったか?
なにせ、団塊ですから(笑)
でもお陰で、良きにつけ、悪しきにつけ、いろいろなものを見させてもらいました。
その印象を語り伝えること義務はあるのかと思っています。
マイルスのバンドのメンバー交代の理由は何れ詳しく書きたいと思っていますが・・・大体はヤク中毒かアル中が原因で、あとは長旅が嫌いという理由。
人気バンドはツアーが多いからです。

日本に来るときサム・リバースが来たのは、その前のジョージ・コールマンをトニーがとても嫌っていたからです。そして、トニー推薦のサムを入れたのが真相だそうです。
何しろ、マイルスはペットいう楽器の特性上、ピアノとドラムを重視していました。
サックスは音数が多く吹けるけどペットはそうはいかない・・これが理由です。
マイルスは薬物とアルコールには結構神経質で、ヤク代を借りにいったガーランドに断ったら、ガーランドが録音途中で帰ってしまった。
だから最後の一曲をマイルスが自分で弾いた・・・これってありましたね・・・そんな盤が。
私はBASSCLEFさんの推察どおり、ジャズの象徴として、HNにMILESを使いました。
マイルスは後年ショーターをえらくかっていましたが、私はショーター加入直後までが好きで、以降はあまり聴きません。

Posted by: 4438miles | March 30, 2007 at 14:17

4438milesさん、こんにちわ。bassclefです。
自分のソロが終わって、トニーと向かい合うマイルス~いやあ・・・この辺り、情景が浮かんでくるような臨場感ですね。KAMIさんと同じく「もっと早く生まれてきたかった」です(笑)
マイルスは、トニーに、ソロイストへの「あおり方、逆にすかし方」みたいなのを、自らのモーション(身体の動き)で、教えたかったんでしょうか。いずれにしても、マイルスという人は・・・自分が巧く吹こうというプレイヤーとしてだけではなく、「演出家」的な人だったように思います。
ゼンさんが語る(あえて語らない)「マイルスの本心」というのは・・・実はこの「演出家」というところにその本質がある、と思うのです。
マイルス自身のトランペットのプレイというのは、いろいろ聴いてみると・・・そのフレーズ、リズム感、音色も含めて、実は驚くほど「変わってない」ように思います。(実際、エレクトロニックの後期マイルスを、ほとんど聴いたことがない僕でも、ジャズ喫茶でチラっと流れたそんな電化ジャズの中の、ちょっとしたトランペットのフレーズを聴いて「ああ・・これマイルスだ」と判ってしまうことが何度かあった)
そんなマイルスは、ガーランド・チェンバース・フィリージョー、そしてコルトレーンがいかに素晴らしくても、いかにかっこいいジャズだったとしても、その同じリズムセクションで続けていると「同じスタイル」になることは避けられない・・・つまりマイルスは「厭きてくる」(笑)で・・・ケリー、ジミーコブ、モブレイだ。こちらも素晴らしい。しかし・・・厭きてくる(笑)~もちろんマイルス自身がですよ~そしてマイルスは自分がそう感じるだけでなく、聴き手(レコードを買う人)にどう聞こえるかも考えていた。同じムードが続くのはまずいぞ~という演出家の発想だったのかもしれない。
そしてハンコック、カーター、トニーの時代だ。こうしてバックのサウンドが変わると、実際、同じスタンダード曲を演っても、テンポ、曲調、もちろん全体の雰囲気が変わるのだ。マイルス自身は変わっていなくても。
そうしてマイルスが本当に凄いのは、こうして「スタイル」を変えていっても、それぞれの時代(スタイル)に
絶対的なファンを得てきたことだと思う。それで何十年も「マイルス」は・・・「ジャズ」の象徴なのだ。いや、象徴といっても実体のある存在ですよ、もちろん(笑)怖ろしいくらいのプロフェショナルだとも思う。

4438milesさん、というマイルスの名を付ける方のブログで、マイルス話しが長くなってしまいました。みなさんが思う「オレの好きなマイルス」というのは、ピタッとピンポイントで、ある時代、あるスタイル、そしてあるレコードに、収斂しているのだろう・・・と思います。その辺の思い込みなど、ぜひ知りたいものです。僕自身はだいたい「イン・ベルリン」くらいまでで、その後のあまりにショーター色の強い、またはモード的なサウンド展開的ジャズ色が強くなってしまった「スタイル」はあまり好みではないです。

Posted by: bassclef | March 29, 2007 at 11:27

4438miles様、こんばんは。
ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウイリアムス。うーん、最高のリズムセクションですね。
そして御大マイルスは絶好調。
そのマイルスを体験したなんて。羨ましいです。
こういう話を聞くと、もう少し早く生まれたかったと思います。
残念無念(笑)

Posted by: KAMI | March 28, 2007 at 23:26

最近、マイルスの自叙伝を読み返し、マイルスのバンド作りの過程がかなり分かってきました。
改めて、背景や事情が理解できました。
単に音楽的な問題の場合も、また個人的事情もいろいろあったようです。
因みに、ここにあるマイルスが羽田に降り立った写真は一見ご機嫌ですが、実は疲れていて、ヨレヨレだったそうです。

Posted by: 4438miles | March 27, 2007 at 15:59

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