団塊のJAZZエッセイ「KIND OF BLUE」その136回「エグベルト・ジスモンチを聴く」の巻ー
8月20日 第一生命ホールでエグベルト・ジスモンチを聴いた。16年ぶりの再来日で、この再来日に尽力されたのが、私の小学校の同級生の御嬢さん。お母さんは、ジャズピアニスト故本田竹広氏を同じ国立音大卒という縁で支援してきた方。(ジャズの世界に限らず世界は狭い)
手配を頂き、正面の5列目という絶好の席で聴くことができた。
1947年生まれというから同い年である。
レバノン人とイタリア人の子でブラジルで生まれた。
5歳から音楽教育をうけ、成人になってオーストリーへ留学、音楽教育をうける。
音楽家の道を平穏裡に辿るかと思われたが、ブラジル人としてのアイデンティティが薄いことに気がつき、アマゾンの密林でインディオと共に生活、ブラジルの土着音楽を研究し、独自の音楽性を創造した。
以前、偶然にもドイツで聴いたことがあった、それが始めてジスモンチを聴いた経験である。
フルートを吹き、ギターを弾き、ピアノを弾く。
ジャズでありクラシックであり、民族音楽でもあり、全ての融合体である。
私が聴いたのは、アイアート・モレイラと一緒にいた頃で、かなりジャズを意識していた頃であった。
昨夜は前半一時間がギターで後半一時間がピアノだった。
ジスモンチの演奏はジャンルを超越した音楽である、彼の「音」を聴き、「フレーズの語り」を聴き、音楽空間を感じる。
前半のギターによるインプロビゼーションは、「語り」であった。彼の10弦ギターは饒舌に語った。
目で見るとそのテクニックに圧倒されるが、目を閉じると、音の綺羅星が降ってきて、宇宙を感じる音になった。
根底にあるリズムの上でその語りは奏じられた、リズムは浮ついたものではなく、地に根ざしたリズムだ。
そのリズムに絡まる、コードもシングルトーンも透明で澄んだサウンドとなって語りかけてきた。
語りかけてくるのは、ジスモンチではなく、大地の生命と感じられた。
ブラジル音楽は深い、なんと哲学的なのだろうか・・。
休憩を挟んで、後半はピアノで表現した。
繰り返されるリズム、その中に置かれる粒ぞろいの音色・・。
ピアノは「語り」より癒しであった。
聴く者に沁みこんでくる音は、心を浮遊させ、余分な力を抜けさせる音だ。
やはりピアノでも、彼の音は宇宙のヴァイブレーションをもって包み込んできた。
丁度、ピアノの手が見える位置で聴いていたので、ペダルワークも運指も、指に掛かる力具合も見てとれたが、音の柔らかさに反し、タッチの強さは尋常ではないことは見ても聴いても分かった。
しかし、彼のギターやピアノの技術論をここで言っても始まらない、要は彼の音だ。
今般、この音を生で聴くことができたのは、貴重な経験であり無常の喜びであった。
しかし、同じ年であのエネルギッシュな演奏と集中力は凄い。
余談であるが、偶々、前の席がピアノの青木弘武夫妻であった、彼が大阪音大を出てジャズピアニストとして東京に来て依頼の25年以上の付き合いである。いまでは日本を代表するジャズピアニストに成長した。
彼とジスモンチを聴いて同じことを言った、「目を閉じると、聴こえる音の数が100倍になるね」と。












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