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December 28, 2007

団塊のJAZZエッセイ「KIND OF BLUE」その144回ーー「オスカー・ピーターソンへの賛歌」の巻ー

2007年12月23日、オスカー・ピーターソンがこの世を去った。
思えば随分と長いつきあいであった・・・・とは言え、個人的な交流が特にあった訳ではない。
1961年の1月にジャズに魅せられて以来、アート・ブレイキーやマイルスと共に長いつきあいであったような気がする。
しかし、ピーターソンとは何か別な繋がりというか、少々次元の異なる繋がりではと思う。
そこで、彼へのオマージュという意味も含めて、出会いからを整理して書いてみよう。

初めての出会いは1953年のJATPで来日割いた際に母親に手を引かれて聴きにいった、しかし、意識して聞いていた訳ではないので母親から聴いたといわれて、そうだったのかというくらいの感覚と記憶しかない。
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1962年頃にやたらに早くピアノを弾く奴がいると、高校時代のバンド仲間4人の間で話題になった。
シカゴはロンドンハウスでのライブ盤を聴いた一人、アルトの軒口君が言い出した。
早速その速さとやらを聴いてみたいとおもい、通いつめていた数寄屋橋のハンターへ出向いた。
あった!
それも二枚組みで箱に入っている、高いかなと思ったら、バーゲンで二枚で3000円という。
当時モノラルが1500円でステレオ盤が1800円というのが国内盤の定価であった。
分厚いボール紙でできたLPの箱に入っているだけで高価そうだ。
3000円は大枚であったが、なけなしの持ち金をはたいて購入した。
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「グリーン ドロフィンストリート」で始まり。「トリクロティズム」「シカゴ」「ビリーボーイ」などワクワクとさせるスリリングな展開の連続であった。
「おい、すごいよ」と翌日仲間に話した。
4人のバンド仲間での評価は半々であった。
早く弾けば良いというもんじゃないよ、という奴、でもあのスイング感はたまらないぜ、という奴。
そこから、テクのあるピアニストとテクはないが感性で勝負は誰かなどと論争は発展していった。
同時にスイングジャーナル誌でも紙上論争があり、ピーターソンはスイングするかしないかというテーマであった。

1963年6月2日、産経ホール、ノーマン・グランツの司会でコンサートは始まった。
先ず、ドラムのエド・シグペンが呼ばれ、ブラッシュでスネアを叩き始める、続いてレイ・ブラウンが登場しミディアムアップの4ビートにあわせたブルースコードのウオーキンベースを弾き始める。
最後に御大、オスカー・ピーターソンの登場だ、先ずは「リユニオン ブルース」。
三人の呼吸の合い方が凄い。

最前列の席は高額で高校生には買えない、立見券で入った仲間4人は暗くなるや走って最前列の前の通路に腰をおろして聴いていた。
きっと今では通用しないだろう、直ぐにつまみ出されること間違いないが当時は結構許されていた。

目の前にエド・シグペンがいる、切れ味の鋭い左手のアクセント、ハイハットの音が生で聴こえる・・・レイ・ブラウンはピアノに近く寄り添うように立っている。
大きなステージに三人がシッカリとくっついて纏まったセットになっている。
レイ・ブラウンの低音ながらシッカリと通る大きな音。
ピーターソンは何気ない顔をしてサラッと素早いフレーズを弾く、このフレーズが途切れない、コチラの呼吸が続かなくなるほどだ。
そしてピーターソンのフレーズを唸る声も生で聴こえてくる。
ドラムのピッシ、パッシときまるリムショット、すかさず入るレイ・ブラウンのブゥヲーンという超低音・・何から何までが名人芸に聴こえ、観え、鳥肌がたった。

この日はライブ録音をしていた、後年この盤が発売になった。
「LIVE IN TOKYO 1964」というパブロ盤のCDが出ている。
これを聴いて驚いた、何と最前列でイェーとかイヤァとか叫んでいる声が録音されている。
この声は間違い無く、仲間の故軒口隆策君の声だ。拍手もまじかに大きな音で録音されているのが、我々の拍手だ。
「アイリメンバー クリフォード」、「カドタス ダンス」「ライク サムワン イン ラブ」最後の「自由への賛歌」まで、当日の演奏順に並んでいる。

休憩時間、4人の意見は一致した、「ピーターソンはスイングする!それもただのスイングではない、強烈だ!」産経ホールから東京駅までの帰り道、評論家のピーターソンの評価はあてにならないと、あらぬ方向に話題がむいた。
アルトの軒口君は田町で降り、私とドラムの故小林君は蒲田で下車、私はそこから私鉄に乗り継ぐ、ベースの安藤君は川崎までゆく。その間、ピーターソン トリオの素晴らしさを語り続けた。

しかし、一方内心私は別の不安があった。
ピアノはああ弾かなくてはいけないと思われたら・・・これは大変なことだ。
そして家に帰り、あの二枚組のロンドンハウスを聴いた。
翌週、数寄屋橋のハンターで別のピーターソンを探していたとき、「ストラットフォード、シェークスピア フェスティバル」という、ギターのハーブ・エリスをいれたLPを発見。
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これを聴いて、再度ぶっ飛んだ。
ドラムなしのピアノトリオで聴いたことのない速さで演奏している。
ギターのストロークとベースが完全に一致して強烈なスイング力だ。

ドラムの小林君が聴きたいと、LPをもって彼の家にゆき、彼はそれをターンテーブルにのせ、音を聴きながらドラムを叩く、これが丁度いい練習だという。
でも、ブラッシュでアップテンポを叩こうとするが直ぐにおいてゆかれる。
彼はLPの音量を本物の音と同じくらい上げ、ステレオ装置に向かう形でドラムをセットして練習を続けた。
或る日、小林君曰く、「あいつらは凄い、ドラムも無いのに高速のテンポが一定で狂っていない」と・・・当人が聞いたら、「当たり前だ、お前には言われたくない」と怒りそうなセリフを吐いた。
それから、「ナイト トレーン」「ウエストサイド ストーリー」等など、新譜を追っかけた。

しかし、実際に演奏する段になるとあの指の動きは不可能で、真似をすることを諦め、「あれは真似するものじゃない」といい、私はウイントン・ケリーを追い始めた。

やがて4人は私立男子校から大学へ進学した。
アルトの軒口君は早稲田大学のジャズ研へ、ベースの安藤君も同じ、ドラムの小林君は外語大へ、私は学習院へと進んだ。

私の入った大学は男子60%、女子40%と女子の比重が大きい。
早速、フルバンドにピアノとドラムの両方で参加したり、アルトとペットのクインテットを組んだりしていた。
大学2年になったとき、フルバンにドラムとベース志望の1年生が入ってきた・・がこれがなかなかやる。
フルバンとは別にピアノトリオを結成しようということになった。
少しは指も動くようになった私は、インチキでいかにもピーターソン風に派手に弾く物真似ができるようになっていた。
三人でトリオを組むさいに、ピーターソン トリオ風でゆこうと、無謀な話をしていた。

或るとき、キャンパスで女性を交えて話をしているとき、何か聴きよいジャズがないかと聞かれた、とっさにそれはオスカー・ピーターソンでしょうと答えた。
私の二枚組LPはいろいろな人の手に貸し出されることになった。
そしてそれは概ね好評であった。
当時はボサノバの流行たてであり、ゲッツ・ジルベルトとピーターソンの「ウイ リクエスト」は我が大学では引っ張りだこであった。
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我々、ピアノトリオもインチキな物真似でも当時ジャズをやるピアノトリオは珍しく、結構もてはやされた。
その背景には、ドラムの川島君がやたらテクニシャンで上手かったこと、ベースの森君が音が大きく、どんな早いスピードで何時間も弾ける腕力をもっていたことがある。
私は、再度来日したピーターソンを何度も聴き、その特徴を分析し、物真似につかっていた。
13度も届く手は持ち合わせていない、あのような完璧な音楽才能もない、・・・。
ピアニストの八城一夫氏はピーターソン弾きをしていたが、小さい手であれをやるには、両手が彼の片手に匹敵する、そういう指使いをしないとできないと言っていた。
しかし、私にはそんな指使いは分からない・・・・・。

ピーターソンは最初、シングルトーンなどで静かに出てくる、徐々に音数を増す、倍テンポになる、最後にブロックコードやグリッセンドを多用し、三連符を使い、フォルテッシモに盛り上げる、フレーズの切れ目でドラムのフィルインと合わせるリフをつくり、クライマックスになる。
このような構成の流れを真似するだけで結構それらしくなり、ドラムの川島君のテクの凄さと呼吸のよさで、素人ながら上手く合わせることができた。
そして、このピアノトリオは学園祭では結構人気があり他の大学の学園祭にも呼ばれることがあった。

卒業の間際に、卒業コンサートを開いた、当時私はバンドを二つもっていた。
一つは「セルジオメンデスとブラジル66」のコピーバンドで結構人気があった。
もう一つがこのトリオで結構自信に満ちたインチキジャズをやってヤンヤンの喝采を得た。
1970年大学を卒業した。

1970年代にはピーターソンは何度も来日し、私も何度となく聴きに行っている。
新宿厚生年金ホールで行われたコンサートで、あまり深い考えのない、そして心無い人種差別主義者の投石事件がおきた。
ピーターソンに向けられた投石は幸運にも石はそれた。
演奏は一時中断され会場はどうなることか、これで公演は中止かと・・・。
でも、再度ステージに登壇したピーターソンは静かに「自由への賛歌」を弾き始めた。
いろいろな録音されたこの曲があるが、この時聴いた「自由への賛歌」はまた別の意味をもった感動的な「自由への賛歌」であった。

1995年頃であったろうか・・・私は昼食をホテルオークラのテラスレストランでとり、出口を出た廊下で車椅子にのったピーターソンに出会った。
周囲には彼と夫人以外誰もいなかった。
私は思わず声をかけてしまった、そして6歳のとき1953年にJATPで来日した際に母と聴いた話、1963年に初めて意識して聴いたこと、等など、その間約5分、彼はへぇーという顔をしながらそんなに以前からとか合図地を打ちながら、私のつたない英語での話しを聞いてくれ、最後に握手をした。
大きな手を意識したが、大きさより柔らかさが印象に残った握手だった。

今、レコードやCDの棚に誰の作品が多いかとみると、明らかにピーターソンはトップ3に入る。
ある人は、ピーターソンはどれを聴いても同じでしょうという人がいるが、実は微妙に年代によって異なり、その違いを聴くのも楽しいものだ。
また、ロンドンハウスの二枚組LPに加えることに、そのロンドンハウスで録音したコンプリート盤が5枚組ででており、当時のロンドンハウスに二日間も居るがごとき演奏を味わえるのである。

ヴァーブ時代、パブロ盤、EPSドイツ盤など・・録音の特色もあるし、後年になればなるほど、ヴェーゼンドルファーの特色ある音色を聴くこともできる。

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ピーターソンが死んだと聴いた日の夜12月25日、私は、先ず1964年6月の産経ホールのライブ盤二枚組をそのまま聴き目を閉じた。
そこには、あの日の三人がそのまま登場し、あの演奏をやってくれた、目の前にピーターソンはいた・・・

そしてこれからもずうーっと居続けてくれることだろう。
まだまだピーターソンは弾き続けてくれる。

THANKYOU OSCAR! I MISS YOU!
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December 21, 2007

団塊のJAZZエッセイ「KIND OF BLUE」その143回ーー「スリーピー・狂紫朗という男」の巻ー

<前号より続く>
(空想と幻想と思いつき、架空のジャズクラブ「KIND OF BLUE」へようこそ。幸か不幸か、貴方は下らない口から出まかせ、推敲なし、構成無しのお話に付き合わせれることになる。中傷誹謗、罵詈雑言多いに結構、灰皿投げるも、布団を投げるも多いに結構・・・しかし、コメント欄にお世辞の一言くらいは書き残すが礼儀・・・・ナンチャッテ、またまた続くデタラメJAZZ小説なのであります。)


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金曜の演奏時間はとうに過ぎ、もう夜中の1時半を廻っていた。
しかし「KIND OF BLUE」の店内はまだ熱気に溢れかえっていた。
飛び入りでソプラノでブルースを吹き始めた男は続いて帯に挟んでいた脇差の様なものを取り出すと、濃い紫の筒状の袋から竹の横笛を取り出した。
やおら、曲目も言わず、吹き出したメロディーは「オレオ」だ。
でもこの日本の民族楽器でもある竹製の横笛はフルートと違い、かすれた音を伴い独特の音質を産みだしていたが、音程は安定しフルート以上に西洋音階をとらえていた。
さすがに吾郎達だ、キーを捜しだし、伴奏に入った、キーはD♭だ。

読者にはこの男の素性を紹介しよう。
すでにかなり以前、マスターのゼンさんの学生時代の仲間が店に来てはジャムっていたことをご存知だろう。
そのうちの一人、天才アルトの恩田君がこの人物だ。
彼は大学を卒業し、警察に入った、公安の特殊な部門ゆえ、仕事の事は言えないといいながら、天才的なジャズセンスをもった恩田君はアルトを抱えてよく店に遊びにきていた。そんなシーンも覚えている方もいらっしゃるだろう。
彼は今年定年になった。警察を辞め、これからどうしようかとゼンさんのところに話にきていた。
どうせ独り身の恩田は、いよいよジャズをやりたいと言い出した。
「今、どこのジャズクラブ行っても、軟弱なジャズというか、聴いていられない音が多い、俺は今更プロになって稼ごうとは思わない・・が・・だっ、少々渇を入れてやりたい」という。
退職金をゼンさんのファンドに預けて、全国のジャズクラブを廻りたいというのだ。

そのいでたちがこの格好だ。
「スリーピー・狂紫朗」なんだか、松本英彦の愛称と眠狂四郎を掛け合わせたような名前だ。
しかし、今までの職業柄、目は鋭く、公安刑事の勘も優れている、そんな「気」を消すように突拍子もない格好を思いついたのだ。
今夜はそのデビュー最初の夜であった。

横笛、バンブーフルートの音色は益々冴え渡った。
早いフレーズと「間」、そして一瞬を切り取る鋭い一音、それに素早く反応するピアノとドラム、ベースはいつも以上に低音部を強調し、コントラストをつける。
音にも陰影があることが見えてくる。
ピアノとベースとドラムが一体となった大きな弧を描くスイングをたたき出す、その上で横笛の音が渦を巻き始める。
3コーラス目からはフリーの世界になっている。
聴衆は不思議な心地よい感覚に取りこまれ、闇の中から一閃の光が迫ってくる錯覚に入る、否、錯覚なのだろうか・・・・アクアマリーンのような透明感のある光が闇の中から迫り来る、眩しい限りの輝度で、でも目はシッカリとその光を見ている。光が見える・・・・。

ピアノ、ベース、ドラムが横笛とのインプロビゼーションで会話を続けるうちに、心を素直に音に集中させると奏者は自然に音に反応させられてしまう。手が音を自然に選んでしまうのだ。
もし、素直に音が聴けないと、その奏者の手は凍りついたように動かなくなり、何も出来ないで、ただただ無力感と敗北感にさいなまれるだろう。
しかし、ここで演奏している三人は素直にその音に入っていった。そして自然反応の如く、互いの音からインスピレーションを受け、インプロバイズされた感性から素直な音を出していた。

「音」というものがこの自然界というか宇宙にあって、空気の振動である物理現象であり、その振動は瞬間に伝播し人の心、すなわち、奏者や聴衆をも振動させエネルギーに昇華させる。
それは例えれば、ジョン・コルトレーンとエリック・ドルフィーの相互インプロビゼーションにも聴けるといえば良いのだろうか・・。

横笛が静かに低音部へと降りてゆき、オレオのテーマに戻ったところで、聴衆は我に帰った。
この混沌なのか秩序なのか・・・不思議な時空の中で異様な「光」を見た。
テーマが終っても暫くは、店内は静まったままだった、皆の顔は満ち足りた顔をしていた。
深呼吸ともつかぬ、ため息のあと、大きな拍手が起きた。
それは、賞賛の拍手ではなく、感謝の拍手に聴こえた。

それこそ、後年、「月光奏法」と名づけられた、スリーピー・狂紫朗の独特の奏法であった。
彼は、静かに横笛を鞘袋にしまい、帯に挿し、一礼をした。
共演をつとめた三人も満足感に浸っていた。

ソプラノ・サックスを筒にしまい、まるで佐々木小次郎の如くそれを斜めに背に負うて、竹の横笛を脇差の如く、さあ、スリーピー・狂紫朗はこれから何処へゆくのだろうか・・・・。


<次回に続く>

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December 14, 2007

団塊のJAZZエッセイ「KIND OF BLUE」その142回「スリーピー 狂紫朗 見参!」の巻ー

<前回より続く>

・・・いよいよ、空想と妄想のジャズクラブで何が起こるか、何が始まるか・・・ジャズ界の仕置き人登場か!・・・

金曜の「KIND OF BLUE」は常連で混みあっていた・・といっても所詮30人で満員だ。
コメント常連のDUKEさんやKAMIさん、BASSCLEFFさん、しんじさんもテーブルを囲んで休憩時間にジャズ談義だ。
最近ではMIXI口からの常連客もよく店にきてくれているようだ。
ハウストリオの河田吾郎、ドラムと大野、ベースの山田といつもの顔ぶれが次の曲を決めていた。
「枯葉って、スタンダードではかなり録音されているよね」って、ベースの山田君が切り出した。
「そう、ティモンズなんていいよね」と河田、大野は「やはりマイルスの印象が強いな」と、「次にやってみる」「イントロは何かつくろうよ」とゼンさんが加わった。
「じゃあ、俺がリズム無しで、スローでSMILEを8小節弾くから、そしたら枯葉のテーマに入るのインテンポで・・・」と河田が言い出した。
「じゃあ、時間だから」と大野がドラムの椅子に座った。
ザワついていた店内が少しづつ静かになって、ローソクの煌きだけが揺れている。
吾郎が、SMILEをシングルトーンでユックリとメロを辿った・・・8小節目で音を止めるとベースがミディアムファーストのテンポで高音がら半音階下降で下がりながらFまでもってくると、そこで全員が「枯葉」のテーマに入った。テーマから凄いスイング感を感じさせる冴えた入り方に思わず「イエェー」と声が掛かった。
吾郎のソロは延々と6コーラス目に入った、益々ベースが絡む、ドラムが煽る、吾郎の三連符が大きな弧を描く、お店中がスイングを始めた瞬間だ、これがこの店「KIND OF BLUE」の本領発揮だ。
ベースにソロが廻る、山田君は1コーラスをピッチカットで2コーラス目からアルコで弾き出した。
アップテンポでありながら音色に哀愁が篭っている・・・最近にないグルーブ感が漂っている、続いてドラムとの4バースになり、最高潮に盛り上がってゆく。

そんな時、紫がかった大島の着流しに何やら細長い筒を背負った、長髪ポニーテールにヒゲ面の男が階段を下りてきたことに気付いたのはゼンさんだけだった。
演奏が白熱している中で、ゼンさんは「久しぶり」と小声で言った、男は静かにうなづいて、背負った長い筒をおろし、カウンターの横にこしかけた。締めた角帯には何やら脇差のような物を挿していた。

延々20分におよぶ「枯葉」が終わり、お客がヤンヤの喝采をおくっている。
吾郎がチラッとカウンターの横の男をみた、「やる?」、声はでていないが、しぐさでわかる。
男は、長い筒から、金色に輝くソプラノ・サックスを取り出した。
皆が、変なヤツが・・と思っている、何しろ着流しの男・・・今日は「着物でジャズ」の日ではないのだ。
マウスピースをつけながらピアノの横にたった、「何?」と吾郎が聞いた。
男が静かに言った「Dナチュラル・ブルース」、途端に出だしのテーマ、4小節を一気に吹いた、ドラムの二拍のロールを合図に全員が入った。
引き締まった空気と、緊張感のあるブルースが始まった。
音数はそれほど多くはないが、ノリのタイミングに緊張感がある、いつになく、ピアノのフィルインが鋭いし、ドラムのアクセントもきつめに入ってくる。
その男は静かに目を閉じたまま、ブルージーなフレーズを吹くというより置いてゆく。
フレーズの合間に微妙な間を置く、その間が聴く者をじらせるが、それがまた心地良い。
「惹きつけられる音だね」と常連のマナブ君が言った。
「でも一体何物なの、あの人?」とデザイナーの京子ちゃんが言った。

少ない音数から徐々にエキサイティングな音量とフレーズへと上り詰めてゆく、ドラムのシンバルとバスドラのコンビネーションが重く大きなスイングを生みだしている。吾郎のピアノも低音部での展開が多く、ピアノの左手にベースのアクセントが絡む、全体で複合リズムを作り出している、その上にソプラノの高音がコントラスト鮮やかに訴えている。ソプラノサックスの音が一音一音、空気を斬っていることには変わりない。

「スリーピー・狂紫朗っていうんだって」とスタッフのヨーコがマナブ君に囁いた。

<次回に続く>

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